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かもめアカデミー
忘れられた壁画を救う 京都大学大学院 人間・環境学研究科
田口かおり
第8回 剥がし作業完了 そして修復へ

パラロイド B72 アセトン20%溶液


 2022年6月29日。前回の失敗をふまえて表打ち用の接着剤として用意したのは、「パラロイドB72」である。優れた透明性、安定した強度、取り扱いのしやすさ、接着性への信頼や化学的安定性などが評価されて、美術作品の保存や修復に長らく使用されてきたアクリル樹脂である。ただし、溶剤で希釈しなくてはならないため臭気の問題が伴う。最後の最後まで選択肢とすることに迷いはあったものの、開口部から外気が十分に入る作業環境であることをふまえて、工事用送風機も回しながら対策し、「パラロイドB72」で表打ちを行うことを決定した。

 この樹脂の良いところは、前述のように、なんといっても作業のしやすさと確かな強度にある。前回、マイクロクリスタリンワックスではどうしても安全に剥がすことができなかった箇所の近くを処置エリアとして定め、和紙をあてて、希釈溶液を筆で染み込ませていく(図5)。先週とは異なり、短時間のうちに溶液は硬化する。和紙の上から描画層を指で触れ状態を確かめる。再度の挑戦である。

図5 パラロイド樹脂を使用した表打ち

図6「青い壁」を剥がす作業


 スクレイパーの刃を壁とキャンバスの間に差し込み、左右から同じスピードでゆっくり左右に刃を揺らすようにして、下から上へと剥がしていく。じりじりと時間をかけて、作品が壁から剥がれていく感触が腕に伝わってくる(図6)。
 16時、予定していた「赤い壁」「青い壁」の剥ぎ取りを終了した。無事に剥がれたのは良かったものの、ここからは、作品をいかに修復し、どのように展示すべきかを検討しなくてはならない。

修復の工程


 剥がした壁画を修復工房に運びこみ、処置が始まったのは秋のはじめ頃からのこと。保存修復の最初の工程として、まず、全体の点検や記録写真の撮影を行わなくてはならない。作品をよく観察しながら、何を、どこまで、どのように処置できるかを決定するのである。

図7 脆い石膏地

 間近で見るほどに、汚れや埃が広く堆積して汚れていることがわかる。人が出入りするホールの壁面を長きにわたって装飾していたものなのだから、ある程度は予想されていたことである。表面の擦れ傷は部分的に茶色く変色してしまっていた。壁面から画布を剥がす際の衝撃で、端に欠損や裂けが生じている部分、そして、石膏が剥落している部分の不安定さも目立つ(図7)。

図8 裏面から樹脂を塗布して硬化する作業

 まず、クリーナーを使用して表裏面全体に付着している塵埃を吸引する。壁面から作品を剥がす際にも刷毛を使った洗浄を行なっていたものの、やはりこの作業の後には、色味が幾分鮮やかに立ち上がってくるのがわかる。あちらこちらにみられる裂け部分を安定化させるためには、シート状の接着剤で和紙を熱圧着して固定する処置を行う。
 問題は石膏地で、なんとか壁面から剥がすことはできたものの、裏面から確認するとまだぼろぼろと崩れてくるような状態であった。裏から今一度、樹脂を塗布して、石膏地を安定化させる処置を行わなくてはならなかった(図8)。表打ちに使った和紙を溶剤でゆるませて除去する作業も困難である。安全に壁から剥がすために、念入りに硬化させた部分から和紙を剥がしていくのは時間がかかるのだ(図9)。

図9 表打ちの和紙を除去する


 「赤い壁」からは横並びのキャンバスを剥がしたため、中央で2枚の継ぎ目を合わせ固定する作業も行う必要があった。中央を接合し、裏面の四辺に厚手の和紙で作成したヒンジを取り付け、ポリカーボネートのパネルに張り込んでいく(図10)。

図10 裏面に取り付けられたヒンジ


 剥がした作品をどのように再展示するかは、頭の痛い問題であった。「壁」をいわば「一枚の絵」の状態にする以上、空間を埋め尽くすような威風堂々とした風情はどうしても失われてしまう。ただし、部分的にでも「剥がす」処置をしなければ、全作品はそのまま失われてしまう状況にあった。建物全体の写真記録、処置の写真と映像記録などのドキュメンテーションとあわせて、「一枚の絵」としてしか残りえなかった作品を、可能な限りシンプルに展示すること──そのねらいを定めた上で、軽量なポリカーボネートに作品を張り込むこととした。

 作品の裏面からは、キャンバスの裏に貼られていた紙や、処置された箇所の様子が見てとれる。壁から剥がされ、「一枚の絵」に仕立てられた作品に刻まれたさまざまな痕跡が見てとれるような仕様になっている。

図11 額装された署名

 当初考えていたのは、壁と一体化するような展示方法であり、額縁を取り付けずに修復を終えるというプランであった。しかし、額装しないままでは作品の取り扱いが難しくなり、また、展示中の揺れや変形も懸念される。2度3度にわたる検討を経て、署名にも、作品にも、黒色のシンプルな額を取り付けた(図11)。

 これらの作品が、12月の3日から小田原三の丸ホールに展示されることになる。廊下状の展示スペースは、どこか作品が元あった場所―─市民会館のホワイエを思わせるところがある。「壁画」から「額装された一枚の絵画」へと変容した作品が一体どのように立ち現れるのか、いよいよ公開の日が迫っている。(つづく)
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【たぐち・かおり】
1981年生まれ。国際基督教大学教養学部卒業。フィレンツェ国際芸術大学絵画修復科修了後、フィレンツェ市内の修復工房に勤務し、帰国。2014年、京都大学大学院人間・環境学研究科修了、博士(人間・環境学)取得。東北芸術工科大学・日本学術振興会特別研究員PDを経て、東海大学創造科学技術研究機構に日本学術振興会卓越研究員として着任(特任講師)。東海大学教養学部芸術学科准教授を経て、現在、京都大学大学院 人間・環境学研究科准教授。専門は保存修復史、修復理論。国内で開催される展覧会のコンサベーションを数多く担当している。
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