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かもめアカデミー
忘れられた壁画を救う 京都大学大学院 人間・環境学研究科
田口かおり
第7回 いよいよ剥がし作業開始

マイクロクリスタリンワックスの困難


 2022年、6月16日、13時30分。午前中、予想以上に滑らかに署名部分を壁から引き剥がすことができたために、チーム全体に安堵感が広がるなか、いよいよ午後の作業が始まった。気温は徐々に上がり、暗い建物の中にいるとはいえ、機材を使用しながら動いていると汗が噴き出てくる。夕方までの限られた時間のなかで、効率よく作業を進めていかなくてはならない私たちは、複数の作業班に分かれて作品を剥がすことにした。

図1 マイクロクリスタリンワックスを使用した表打ち

 チーム1は、脆い作品表面にマイクロクリスタリンワックスをじっくりと染みこませていく処置を1階の「赤い壁」で行う「表打ち班」である。アイロンを使ってフィルム越しに熱を加えながらワックスを溶かし画面に伸ばしていく係と、フィルムの上からさらに柔らかなクロスをつかってワックスをより奥へと押し込めていく係の2人組で行わなくてはならない。ワックスが温められて柔らかくなってから冷えて硬くなるまでのわずかな時間の間に作業を進める必要があるため、互いに呼吸をあわせながらの連携が重要である(図1)。

図2 「青い壁」の処置計画を練る様子

 チーム2は、「赤い壁」よりもさらに脆い「青い壁」に同じくワックスを浸透させる「表打ち班」だ。「青い壁」にかんしては、可能であれば、表面を削り複数色を重ねているような、複雑な技法が確認できる場所を残したい。とはいえ、この壁の描画は石膏が分厚く、果たしてワックスがどれほど奥まで染み込んでいくか不安が残る。「保存箇所の優先度」と「作業の実行可能性」のせめぎ合いのなかで、処置エリアを定め、印を付けるところから作業が進行していった(図2)。

図3 「赤い壁」を剥がす作業

 チーム3は、起伏がほとんどないエリア──つまり、比較的容易かつ安全に剥がすことができる1階上部の「赤い壁」を剥がしていく。このあたりは壁に貼られたキャンバスの上に直接塗料が塗布されており、スクレイパーの刃がキャンバスを突き破ることさえなければ、大きな画面を剥がすことも可能である。ただし、壁面とキャンバスを接着している糊の粘着力にむらがあり、時折スクレイパーが「つまって」、止まってしまう。そこで過度な力をかけると、たちまちキャンバスが破れてしまうのである。つまりは、時間をかけ、無理をせずに刃を進めるほかはない。手のひらに無数の擦り傷や切り傷を作りながらも、やはり2人組で作品を剥がしていく(図3)。

仕切り直し


図4 マイクロクリスタリンワックスを使用した表打ち

 15時。チーム3の作業が終了し、「赤い壁」の一部を壁から剥がすことに成功する。壁から剥がされた作品の手触りはごわごわとしていて、思っていた以上に軽く、腕の中にすんなりとおさまった。
 16時。1チーム目のワックスを使った表打ちが終了し、いよいよ作品をスクレイパーで剥がす作業に入った。しかし、ここで問題が発生する。心配していたとおり、ワックスが下層まで十分に浸透しておらず、キャンバスと塗料の間の層──つまり石膏地がぼろぼろと崩れてしまったのである。やはりもっと浸透しやすく、粘度の低い液体状の接着剤を使用しなくては、「赤い壁」も「青い壁」も剥がすことができない(図4)。

 このことを確認するのに、午後をすべて使ってしまった。仕切り直しである。外に出ると、夜風が頬に生ぬるくあたってほどけていった。さて、何をつかって表打ちをしたものだろうか。(つづく)
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【たぐち・かおり】
1981年生まれ。国際基督教大学教養学部卒業。フィレンツェ国際芸術大学絵画修復科修了後、フィレンツェ市内の修復工房に勤務し、帰国。2014年、京都大学大学院人間・環境学研究科修了、博士(人間・環境学)取得。東北芸術工科大学・日本学術振興会特別研究員PDを経て、東海大学創造科学技術研究機構に日本学術振興会卓越研究員として着任(特任講師)。東海大学教養学部芸術学科准教授を経て、現在、京都大学大学院 人間・環境学研究科准教授。専門は保存修復史、修復理論。国内で開催される展覧会のコンサベーションを数多く担当している。
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