× close

お問い合せ

かもめの本棚に関するお問い合せは、下記メールアドレスで受けつけております。
kamome@tokaiedu.co.jp

かもめの本棚 online
トップページ かもめの本棚とは コンテンツ一覧 イベント・キャンペーン 新刊・既刊案内 お問い合せ
かもめアカデミー
忘れられた壁画を救う 京都大学大学院 人間・環境学研究科
田口かおり
第3回 1962年、そして、作品を壁から「剥がす」ということ

美術の歴史と1962年


 1962年という年を振り返ろう。ビートルズがデビューし、マリリン・モンローが亡くなり、パリのルーブル美術館が門外不出の宝──《モナ・リザ》を初めて海外へ貸し出した年。それが1962年である。

レオナルド・ダ・ビンチ《モナ・リザ》1503-6年 板に油彩 77x53cm ルーヴル美術館 Web Gallery of Art, fine arts image database

 どのような時代にも、美術にまつわる物語がある。作品は誕生し、移動し、損傷し、時に消滅する。こうした美術作品の物語のいくつかは大きな声で、いくつかはひそやかな声で語られる。たとえば、《モナ・リザ》の物語はどうだろう? 
 77×53cmの小さな世界にフランスの命運を背負って、彼女はこの年に大海を渡っている。背景には、緊迫した米ソの関係と、時代の荒波に揉まれながら自由と独立を勝ち取ろうとするフランスの思惑が絡まっていたとされている。キューバ危機のさなかにあって、フランスのドゴール大統領は、《モナ・リザ》を貸し出すことでアメリカに「貸し」をつくり、その暗黙の見返りとして自国の核保有を認めさせたといわれている。

 政治的な使者の役割を託された作品がフランスから粛々と旅立つ一方、近隣国のイタリアではこの年、被災した壁画作品が次々の修復されていた。ピサの大聖堂広場北側にあるピサ共同墓地カンポサントで、修復士レオネット・ティントーリが、壁画の修復に励んでいた。第二次世界大戦中の空襲で破壊された作品群を修復する過程で、壁に描かれた作品が「剥がされ」、別の支持体の上に移される作業が進んでいたのである。
 しかし、そもそも壁から作品を「剥がす」とは、いったいどういうことなのか。

 小田原の西村保史郎の壁画救出プロジェクトについて考えるにあたって、まずこの「剥がす」修復の歴史を振り返っておく必要があるだろう。

「引き剥がし=ストラッポ」の起源


 壁画の「引き剥がし=ストラッポ」の起源は、18世紀のフランスおよびイタリアにおいて流行した「移し替えトラスポルト」介入である。移し替えは、文字通り、作品の支持体をオリジナルのものから別のものへと「移動し、変更する」技法である。板からカンヴァスへ、あるいは漆喰の壁からカンヴァスへ、と、その手法は様々だ。移し替え流行の根底には、古代の、あるいは特定の時代の断片を作品として蒐集したいという欲望が潜んでおり、作品をより扱いやすい大きさにしてポータブル化したいという願望がある。いつの時代も、「手頃な扱いやすさ」は歓迎されるのだ。

ブオナミーコ・ブファルマッコ《死の勝利》14世紀 フレスコ壁画のシノピア シノピア美術館 DE AGOSTINI PICTURE LIBRARY/Getty Image

 ナポレオンの時代を中心に、蒐集家や修復士、芸術家たちの好みにあわせて、絵画をはじめとする文化財はたびたび改変されて、時に大きくその縮尺を変更されてきたが、移し替えもこの流れに属する作業だといえる。この特異な介入の目的に、「脆くなった構造を強化する」「顔料の剥落を前もって防ぐ」などの修復的要素がつけ加えられるようになっていったのは、その後のことである。
 壁に直に描かれるフレスコ画にかんしては、「引き剥がし=ストラッポ」はもうひとつ、別の目的を持っている。「下絵=シノピア」の発見である。この作業は、通常、漆喰の下に隠されていて見ることができない制作者によるラフスケッチを可視化することのできる、いわば「秘密の技」であった。

シノピアの発見


 1940年代後半から60年代にかけて、イタリアを中心にした西洋各国で、実に多くのフレスコ画が壁から剥がされた。先述のカンポサントのフレスコ画をはじめ、第二次世界大戦前後、戦争中の空爆によって火の粉をかぶり脆く崩壊しかけた壁画を最大限に保存するために、緊急の介入が数多く行われた。その結果、壁画の下から大量のシノピアが発見されることになったのである。

ベノッツォ・ゴッツォリ《受胎告知》部分 1469-84年 フレスコ壁画のシノピア シノピア美術館 Web Gallery of Art, fine arts image database

 フレスコ画は、漆喰がまだ濡れているうちに顔料を染み込ませることで堅牢な画面をつくる技法であり、画家にすばやさと正確さとを要求する。「黄金の時モメント・ド・オーロ」と呼ばれる、漆喰がもっとも良く顔料を吸収する制作に適した時間は非常に短く、それゆえ、画家は悠長に下描きを用意している暇がない。漆喰を塗ったら最後、一気に描き上げるほかないのである。一日の作業量には限度があり、その範囲は文字通り「一日分ジョルナータ」と呼ばれ、工房の弟子たちもが参加して手分けをして描かれる。ただし、シノピアにかんしていえば、漆喰を塗る前の壁に芸術家本人マエストロの手によって描かれるのが常であった。そのためシノピアとは、ある意味で芸術家本人の生々しい「線」とオリジナルの構図を見ることのできる貴重な、隠された「宝」であるともいえる。

 シノピア発見大流行のなかで、ストラッポの目的が「壁画の救出」から「隠された宝探し」へと徐々にすり替わっていったことは興味深い。ひとは、もはやフレスコ画を脆い壁から救い出すためではなく、シノピアを見つけるためにフレスコ画を剥がすのである。

より完全な「引き剥がし=ストラッポ」を目指して


 この当時、「層から層を剥がす」行為が批判的に論じられる機会は限りなく少なかったと言ってよい。それどころか、次々とむきだしにされるシノピアは、徐々にフレスコ画の彩色層とは別個のものとして作品化し、高く評価される対象になっていった。シノピアを発見したはいいものの、その出来が想像していたものとは違い「いまいちである」際には、修復士が自ら加筆し出来のいいシノピアへと改造してしまうケースもあった。現存するシノピアのうちどれくらいがいわば修復士のさじ加減によって改変されているのかについては、詳細が不明な事例も多い。修正を施すことで、美しいシノピアを完全な「引き剥がし=ストラッポ」により発見した、というストーリーを作り上げる介入のたぐいは、珍しいものではなかったのである。

 さて、保存修復分野における「壁からの引き剥がし」介入の歴史を、簡単に振り返ってきた。作品を「剥がす」ことにはいくつもの問題がひそんでいる。その根幹にあって私たちの心をもっとも迷わせるのは、「一体誰に、作品を本来の場所から剥がしとる権利があるのか?」「本来見えなかったものを見えるようにすることは、果たして本当に望ましい処置なのか?」という、倫理的な問いである。これらの問いは、実のところ、小田原市民ホールの壁画修復プロジェクトを実施するにあたって、終始、私たちに付きまとい続けることになる。(つづく)
ページの先頭へもどる
【たぐち・かおり】
1981年生まれ。国際基督教大学教養学部卒業。フィレンツェ国際芸術大学絵画修復科修了後、フィレンツェ市内の修復工房に勤務し、帰国。2014年、京都大学大学院人間・環境学研究科修了、博士(人間・環境学)取得。東北芸術工科大学・日本学術振興会特別研究員PDを経て、東海大学創造科学技術研究機構に日本学術振興会卓越研究員として着任(特任講師)。東海大学教養学部芸術学科准教授を経て、現在、京都大学大学院 人間・環境学研究科准教授。専門は保存修復史、修復理論。国内で開催される展覧会のコンサベーションを数多く担当している。
新刊案内