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かもめアカデミー
忘れられた壁画を救う 京都大学大学院 人間・環境学研究科
田口かおり
第6回 「剥がし」への試行錯誤

第2回:表打ちの実験その1


 2022年5月9日、9時30分。「赤の壁」の起伏のある描画層の表打ちをし、剥がす実験を行う日である。
 この日調合したのは、メチルセルロースとしょうふ糊を混合したもの。メチルセルロースは、繊維から抽出した水溶性の粉末である。化学的に安定していて、劣化も比較的しにくく、水を使えば容易に剥がせるという長所がある。後ほど、壁画の表面に施した表打ちを取り除くことを考えれば、水で除去できるメチルセルロースは使いやすい。接着力が弱いという弱点をカバーするために、伝統的に保存修復の世界で用いられてきたしょうふ糊(小麦でんぷん糊)を混ぜて粘性を増しておいた。

 「赤の壁」「青の壁」の左下方で実験を開始する。剥がす箇所の上に和紙をあて、筆で混合液を徐々に浸透させていく。ほどよく伸び、壁面の微細な亀裂にも入り込んでいく気配はあったが、奥まで浸透しているのかは判断がつかない(図4)。完全に乾燥するまでの時間を十分にとって、48時間後に表打ちを施した箇所をじりじりと剥がしていったが、壁面の起伏はスクレイパーの刃を進めるごとに崩れて剥落してしまった(図5)。接着力が弱すぎるのである。とりわけ2階の壁面の絵具が高く盛り上がっている場所は、覚悟していた以上に脆い状態であることがわかった(図6)。こうした箇所にかんして、1回目の実験時と同じような感覚では剥がすことができない。となれば、「可逆性の高い材料を用いる表打ち」という考え方からシフトして、より「強い」材料を使う必要がありそうである。

図4  5月9日 混合液を刷毛で塗布する

図5 表打ち終了後にスクレイパーで剥がす

図6 「青い壁」の絵具層は脆く崩れやすい


第3回:表打ちの実験その2


 2022年5月31日、15時。マイクロクリスタリンワックスを用いた表打ちを試す。今回使うのは常温で個体のワックスで、耐湿性、耐水性、耐熱性に優れている。保存修復の世界で使われる材料のなかには、過去に別の目的で開発されたものを応用している例がある。マイクロクリスタリンワックスも、元々は戦時中、物資の防湿材として使用されていたものだが、接着剤としての用途を見出されて、美術作品の修復の材料として部分的に用いられるようになったという興味深い経緯がある。伸びが良く、粘着性に優れているが、可逆性という観点では課題が多く、使用時に加熱しなくてはならない点も悩ましい。

図7 5月31日 ワックスで表打ちをした壁面を剥がしていく

 プロジェクト立ち上げ当時には使用を考えていなかった素材ではあるが、作品の脆さを確認した今、より「強い」素材であるマイクロクリスタリンワックスを使ってみようという結論になった。
 湯煎して柔らかくしたマイクロクリスタリンワックスは作品の上でクリームのようによく伸び、アイロンをあてるとより奥へと染み込んでいく感覚がある。冷えるとすぐに硬化するので、前回のように乾燥するまで待つ必要もない。試しにワックスで表打ちをした試験箇所をゆっくり壁から剥がしてみると、小さな剥落は生じるものの、前回よりは感触が良い(図7)。これならばなんとか絵具層を保護できそうだ、というところまで確認し、次回の剥ぎ取りに備えることになった。

第4回:「署名」の剥ぎとり


 2022年6月16日、10時。高所作業に備えた作業台の搬入と組み立てから、この日は始まった。「赤い壁」から剥がす予定の箇所はとりわけ高い位置にあるので、作業しやすい手元と足場を整えるために、慎重に高さの調整を行う。同時進行で次々と運び込まれたのは、巨大発電機、扇風機、照明機材などである。電気が通っていない場所でワックスを使用した表打ちをするためには発電機が必要になるので、市が常備している機材を借していただいた。6月半ばとあってすでに蒸し暑いので、作業中に風を通すための扇風機も必要である。長時間にわたっての作業を照らす照明も欠かせない。ところせましと並ぶ巨大な機材を見渡しながら、電気が使えない場所で作業をする難しさをしみじみと痛感する。

図8 6月16日 「赤い壁」署名部分を剥がす

 地元メディアなどの取材陣も集まるなか、午前11時頃、まずは表打ちが不要な箇所──絵具の起伏のない「赤い壁」の右下、西村保史郎の署名部分の剥ぎ取りを開始した。剥ぎとる署名の周囲にカッターで切り込みを入れ、スクレイパーの刃を差し込むための「入り口」をつくる。半年前と同じように、端から刃を慎重に滑り込ませ、二人がかりで左右からキャンバスをゆっくりと剥がしていくと、15分ほどで署名の剥ぎ取りは成功した(図8)。
 「赤い壁」が、西村保史郎という画家の描いた壁画であるという発見のきっかけとなった貴重な署名を、まず、解体される予定の壁から剥がすことができた瞬間である。
 すみやかに作業が終わり、笑顔の昼食休憩となった。この時はまだ、午後からの作業が困難の連続となることを、誰も知らなかった。(つづく)
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【たぐち・かおり】
1981年生まれ。国際基督教大学教養学部卒業。フィレンツェ国際芸術大学絵画修復科修了後、フィレンツェ市内の修復工房に勤務し、帰国。2014年、京都大学大学院人間・環境学研究科修了、博士(人間・環境学)取得。東北芸術工科大学・日本学術振興会特別研究員PDを経て、東海大学創造科学技術研究機構に日本学術振興会卓越研究員として着任(特任講師)。東海大学教養学部芸術学科准教授を経て、現在、京都大学大学院 人間・環境学研究科准教授。専門は保存修復史、修復理論。国内で開催される展覧会のコンサベーションを数多く担当している。
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