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かもめアカデミー
忘れられた壁画を救う 京都大学大学院 人間・環境学研究科
田口かおり
第4回 1962年から2022年へ 壁画を巡る風景

再び、西村作品へ


2022年現在の「赤い壁」著者撮影

 ここで再び、1962年に時計の針を戻そう。1962年という、《モナ・リザ》が旅をし、多くの壁画が墓地の壁から剥がされた年、日本の神奈川県小田原市のある壁の上に、作品が誕生しつつあった。2022年に一部がある種の「引き剥がし=ストラッポ」によって別の場所へ移されることになる、西村保史郎の作品「赤い壁」「青い壁」である。

 1962年、新設された市民会館の壁面は、画家・西村保史郎の手によって装飾されつつあった。大ホールの一階・二階ホワイエに縦長のクロスが何枚も張り込まれて立ち現れたカンヴァスに、西村は彩色を重ねていった。

開館当時の一階の「赤い壁画」深野彰「旧小田原市民会館・大ホール 壁画に込められた「想い」」『神静民報』 2021/9/25日刊より転載

 一階の壁面は全長2.2m以上にも及ぶ。この壁面が完成した当時、人々は、ガラス張りの正面玄関から赤と青の壁面を同時に見ることができた。赤と青が二筋、すっと水平に伸びるさまは目に鮮やかで、さぞかしスタイリッシュに映っただろう。
 残念ながら、3年後に建物手前に小田原市民会館本館が建てられたことで、ホワイエの赤と青を一度に見晴らすことはできなくなってしまった。とはいえ、今も残る当時の写真から、ガラス越しの陽光にさんさんと照らされたホワイエの様子が窺える。

 電気も水道も止まり、人の気配がなくなった現在の大ホールで作品を見上げる胸の内にのしかかる不安さとは異なって、当時の壁画作品の写真はいかにも風通しがよく、のどかな様子である。作品の前には南国の椰子を思わせる形の観葉植物の鉢が置かれ、細長い椅子とアッシュトレイのようなものが置かれており、壁画が人々の団欒の場に違和感なく寄り添っていた様を想像できる。

60年の時を経て、作品に何が起こったか


 1962年当時と、2022年の今。60年の時を経て、作品にはどのような変化が訪れているだろうか。現存する作品の状態を見ていくと、建設当時の写真上には見当たらないプレートや時計、スピーカーや配線、ゴミ箱などが作品のあちらこちらに取り付けられている状況が目に入る。作品というよりも、むしろ、建築物の構造の一部として扱われ、当たり前のようにそこに「壁」として何十年もあり続けた歴史が、そのまま、状態にあらわれている。
 「ジュースなどを捨てないで下さい」の貼り紙がガムテープで貼られ、「男子お手洗い この裏側です」の印が付けられた青の壁面が目につく。椅子が接触していたと思われる箇所は状態が不安定で、多くの傷や剥落箇所がある。湿度がたまったせいか、下方の状態がとりわけ良くない箇所もある。

2022年現在の「青い壁画」著者撮影

60年の時を経て、触れるだけで剥がれ落ちるほど脆くなっている部分も散見される


 作品に手で触れてみると、作品の上にはさまざまな起伏があることがすぐにわかる。西村は、部分的に石膏と思われる材を使用して表面に起伏をつけたり、まだ乾く前の描画層を削り取りながら新たな絵具をのせたりと、さまざまな技法を複合的に用いて大画面を仕上げていったらしい。ただし、石膏が下に隠れている層は脆く、上の絵具は不安定で、ぽろぽろと崩れ落ちている。さらに、カンヴァスと石膏の間も、固着力が不安定になっていて、接触が悪い。試しに壁からカンヴァスを引っ張り剥がそうとすると、上層の石膏と絵具はぼろぼろと崩れて床にこぼれた。

 抽象的な表現や西村のスタイルから考えて、この「赤い壁」「青い壁」の下に下絵(シノピア)があるとは考えにくく、私たちはただ、作品を解体される建物から救い出すということだけを念頭に置いて、部分的に作品を「切り出して」外へ運び出さなくてはいけない。
 ただ、どこを、どのように、いかなる判断を手がかりに切り出すのか。
 私たちは、作品を壁から「剥がす」ことの必要性やその方法について、丁寧に再考することを余儀なくされたのである。(つづく)
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【たぐち・かおり】
1981年生まれ。国際基督教大学教養学部卒業。フィレンツェ国際芸術大学絵画修復科修了後、フィレンツェ市内の修復工房に勤務し、帰国。2014年、京都大学大学院人間・環境学研究科修了、博士(人間・環境学)取得。東北芸術工科大学・日本学術振興会特別研究員PDを経て、東海大学創造科学技術研究機構に日本学術振興会卓越研究員として着任(特任講師)。東海大学教養学部芸術学科准教授を経て、現在、京都大学大学院 人間・環境学研究科准教授。専門は保存修復史、修復理論。国内で開催される展覧会のコンサベーションを数多く担当している。
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