皆さんは春の訪れを何で感じるだろう。梅や桜の開花か、それともフキノトウが芽吹く季節だろうか。
私たちにとって、春という季節を実感できる瞬間は、植物の活動によるものがほとんどではないだろうか。それはさまざまな植物の芽吹きや開花を通して、視覚にも、嗅覚にも、味覚にも語りかけてくる。生命活動のエネルギーが、化学反応のように爆発する――。美しさを超えて空恐ろしさまで感じるような、ものすごいエネルギーだ。

新芽や柔らかな野草で溢れる春の山
考えてみれば、四季がある国というのは世界でも限られている。地軸の傾きのお陰で生まれる四季。それを感じながら暮らす豊かさを、私たちはつい忘れがちだ。春のありがたみが感覚として刷り込まれた民族は、地球上でもそう多くはないのだ。
さて、そんなありがたき春が、ここネローネ山にもやってくる。山に温かく優しい雨が降り始めるのは春が来た合図、一気に木の芽や野草が芽吹く。アペニン山脈で一番先に咲くのは野生のプリムラだ。ラテン語ではPrimula Vulgaris。「プリモ(一番先に)」という名の通り、山で一番先に咲く地上の花で、その淡く明るい黄色が山の春を知らせてくれる。同時にニオイスミレやスノードロップ、クロッカスなどが、まだ緑の少ない山を彩り始める。
ロレッタのところに通い始めて、春のお楽しみの1つとして「山の野草を摘む」という習慣が出来た。それまでも野草摘みはしてきたが、イタリアで一般的に食されているものだけでなく、もっとさまざまな種類の山の野草が食べられるのだとロレッタは教えてくれた。
第15回で語ったルネッサンスの植物学者コスタンツォ・フェリーチの手記にも、サラダや料理として食べられる多くの野草に関する記載があり、山の野草サラダに対する私の愛着は年々増すばかりだった。先ほど述べたプリムラの花も、ニオイスミレの花も、ロレッタが作る山のサラダに登場し、香りと色、そして薬効で私たちを楽しませてくれる。

春の山はたくさんの食のリソースを提供してくれる
ロレッタは、あえてサラダのために野草摘みに出る、ということをほとんどしない。何かを摘みに行くついでに、ちょこちょこっとお昼用のサラダを摘む、といった感じだ。
小春日和のある日、私はロレッタとこんな会話をしていた。
「そもそも、食用の野草、薬草、毒草の違いって何かしらね。日本ではね、草全般に対していろいろな形容があって、それはそれは定義が曖昧なのよ。ハーブという言葉は、イタリア語だと草全般のL’erbe(レエルベまたはエルベ)に当たるけれど、イタリア語でエルベが付く言葉は、食用エルベ、野生のエルベ、薬用のエルベ、薬効のあるエルベ、アロマティックのエルベなどいろいろよね。そして1種類のエルベがいくつものカテゴリーに当てはまる場合もある。日本はハーブというと、ハーブ園で植えられているようなアロマティックなもののイメージがあって、そのイメージは西洋的なの。例えば、西洋タンポポは薬草であり食用でもあるけれど、日本でハーブとしてハーブ園に植えられているってことはまずなくて、雑草というカテゴリーになってしまうこともあったりね。最近は和ハーブなんて言葉も出来て、洋ハーブと識別したりしているのよ。言葉の定義が幅広いと難しいわよね」
私がつらつらそんな話をしていると、ブツクサうるさいねえと言いたそうな顔をしたロレッタがこっちを見た。
「そんなくだらないことは、ニンゲンが植物を商業用リソースとして考えているから生まれる識別だろう。ニンゲンにとってその植物がどのように有用かなんて、向こうは知ったこっちゃないんだよ。植物が自分の体内に作るものすべて、樹脂も、オイルも、色素も、毒も汁も、自分の身を守るために生産している自分のための薬、フィトコンプレックスなのさ。現代の科学が植物のあれこれを研究したり討論したりしていることを聞いても、腑に落ちないと感じることもある。あたしゃ産業革命以前の書物と数人の学者くらいしか信頼していないよ。温故知新ってことさ」
そうパシッと言われて、ああそうだったと思い出した。彼女が信頼を寄せているのは、ほとんどがとても古い、ルネッサンスくらいまでの本だった。植物が神々のものだった時代。星や月と交差し、空気、火、土、水というエレメンツと結びつけて考えられていた時代。内容を信じるとか、鵜呑みにしているというより、その時代の哲学的なものや、それまでに築かれた知識の積み重ね、時間の厚みのようなものへのリスペクトだといえる。

庭で野草を摘むロレッタ
「ああそうだ、ニオイスミレの花をお酢に漬けなきゃいけないから、庭で摘んでこないとね。雨が降ったら花が台無しだから」。そう言ってロレッタは裏庭に出ていった。私もついて行き、春の庭を見渡した。
新緑のメリッサやヨモギ類、2年目でつぼみを付けているホソバタイセイ、シラタマソウ、オオアカバナなどの無数の新芽が、みずみずしくのびのびと葉を広げ始めている。日が当たるところでは、ボリジも1輪小さな空色の花を付けている。ロレッタは酢に香りを付けるためのニオイスミレの花をいそいそと摘んでいる。鳥のさえずりと春風にフルフルと揺れる野草を見ていると、まるでロレッタの周りで芽吹く野草たちが嬉しそうに踊っているように見える。この人は無意識のうちに植物と調和する波長をチューニングしているのかしらと思うほど、その様子は自然体でいとおしかった。
「ああ疲れた。下ばかり見て摘んでいると腰が痛くて困るねえ。さて、お昼用に少しサラダ用の野草も摘もうか」と言って、ロレッタは周りを物色し、さっさと5、6種類の野草を摘んだ。その中にワレモコウがあった。コスタンツォ・フェリーチの野生のサラダの本でも、このワレモコウがなければ、サラダは美味しくも美しくもない、ということわざが書かれているくらいだ。そしてオオアカバナの新芽や、イワミツバの若葉、野生のフェンネルの若葉など、見た目にも美しい草たちが集まった。栽培されたものは1つもない。
「すごいね、500年前に食べられていた野生のサラダが、こうやって再現できるのだから。知ると知らないとでは、天と地の差の知識だね」。私がそう言うと、ロレッタは紙袋にサラダを半分入れて私に渡した。「しんなりする前にさっさと帰って洗ってあげるといい。これでユキコも昼ごはんに困らないだろう? まさに医食同源のサラダだよ」
私は家に戻り早速サラダを洗い、皿に盛りつけた。それはまるで春の野そのもののように見えた。口に運ぶと、ほろ苦さやえぐみ、花の香りと酢やオイルが絡み合い、早春の草を食む動物の気持ちが分かる気がするほど美味だった。説明はいらない。野生の味は野生の心を呼び起こしてくれる。
私はしばし、春の新芽をむしゃむしゃと美味しそうに食べる山の小動物の心持ちで、サラダの皿と向かい合っていた。(つづく)

野の花と野草だけのサラダ
(写真提供:林由紀子)
【ラファエロの丘から】
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