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もう一度読みたい文豪の手紙
POSTORY代表
近藤千草
第10回 坪内逍遥の美意識 -鼓舞する思いを届けていく手紙-
 1885(明治18)年から翌年にかけて26歳で発表した『小説神髄』の中で、「小説は美術なり」「小説の主脳は人情なり、世態風俗これに次ぐ」と宣言し、新たな時代の写実主義を提唱した坪内逍遥。生涯にわたり日本の演劇の改良運動にも取り組んだ文豪でした。早稲田大学の文学部創設にかかわった教育者でもあった逍遥は、どのような手紙を行き交わしていたのでしょうか。ご一緒に見てまいりましょう。


江戸文学へ憧れた幼少時代



 坪内逍遥は1859(安政6)年に岐阜県美濃加茂の木曽川ほとりの宿場町・太田宿で生まれました。10人兄弟の末子で本名を雄蔵といいます。坪内家は代々尾張徳川家に仕えた家臣でしたが家禄は多くはなく、父・平右衛門は中山道の宿場の代官所の役人をしていました。坪内家が太田宿から名古屋西郊の上笹島村(現・名古屋市中村区)に移ったのは明治維新直後の明治2年、逍遥は10歳でした。
 父は、質素倹約を是とする潔癖家の傾向のある人だったそうですが、母は歌舞伎や草双紙(江戸時代の通俗本)をたのしむ町家出身の女性でした。一家の末っ子であった逍遥は、この両親と、読み書きの手ほどきをしてくれた14歳離れた長兄、9歳年上の次兄の影響下で、何不自由なくのびのび育ったといいます。幼少期を回想した「私の寺子屋時代」に次のような言葉があります。

「父母も、兄も、たとひ口ではこッぴどく叱つても、決して手を挙げるといふことはなかつた。打擲といふことは坪内家にはないことであつた。で、私は今日に至るまで、つひぞ人に撲ち叩かれた経験がない。又人を打擲したこともない。さういふ温和過ぎた家庭に育つたのも、私が、何の抱負も主張もない、只のぬらくらな小説好き、芝居好きで、二十三四歳前後までも経過した一因縁であつたろう。」

 そんな逍遥に転機が訪れたのは1872(明治5)年、13歳の時でした。逍遥は明治維新までのエリートコースであった漢学中心の藩校ではなく、新設の名古屋県英語学校に次兄の義衛と一緒に入学します。二人に英語学校への進学を勧めたのは、長兄の信益でした。続いて名古屋英語学校の寮生になった逍遥は、持ち前の語学センスで頭角を現します。3年後には東京大学(当時、東京開成学校)に官費で進学できる選抜生に選ばれました。逍遥はこの進学によって、幼いころから親しんでいた江戸文学を通じて憧れていた東京への上京を叶えました。


盟友・高田早苗と晩成会



坪内逍遥の盟友・高田早苗。号を半峰と名乗った(出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」)

 千代田区神田錦町に建つ学士会館。その敷地には、「東京大学発祥の地」と書かれた碑が残されています。この場所に、坪内逍遥が学んだ東京大学の予備門と本科文学部はありました。
 明治時代はじめの神田は、官立の東京大学が出来たことをきっかけに、周囲に私立の法律学校が相次いで開校しました。神田には教科書や参考書を売り買いする書店、学生に食事を提供する店が集まってきます。それが本の町・学生の町としての神田神保町の発展につながりました。
 逍遥も大学の仲間たちと神田で青春を謳歌した一人です。逍遥が属していたのは「晩成会」と名乗っていた学生グループで、彼らを率いていたのは高田早苗(号:半峰)でした。高田はのちに大隈重信の立憲改進党に参加し、文部大臣や早稲田大学の総長を務めた人物です。逍遥より1歳年長で芝居と西洋文学通、深川生まれの江戸っ子だった高田とは、終生の友になりました。

早稲田大学で最終講義に臨んだ時の坪内逍遥(出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」)

 晩成会のメンバーは、大学の寄宿舎や神保町にあった松月という天ぷら屋で、政治談議や文学・芸術談義に花を咲かせたといいます。生涯にわたって日本の演劇を愛した逍遥が、新富座などの劇場や寄席へ通うようになったのもこの頃です。当時、逍遥や高田らが文学議論をした相手には、学生時代の岡倉天心もいました。逍遥は当時をこのように回想しています。

「東大在学当時の私は、同窓の故有賀長雄氏が『無主義者』(アンプリンシプルド)と評し、同じく同窓の故穂積八束氏が――数十年後に会つた時――『あの頃の君は始終酔つてゐる人のやうだつた』と評した通りの極楽とんぼであつた。」(「同憶漫談」)

 のびのびとした家庭に育ち、上京して通った大学でも文学・芸術を愛する友人たちに恵まれて楽天的な学生時代を送ったと振り返る逍遥でしたが、彼の学生生活は順風満帆のまま進んでいったわけではありませんでした。


兄たちに誓った「独立独行」



 逍遥は1878(明治11)年に予備門から東京大学本科文学部に進学しました。その大学在籍中に、人生の歩みを一変させられる出来事に相次いで見舞われます。
 まず、第2学年になっていた20歳の時に、長兄の信益が脳卒中で倒れ、勤めていた司法省を辞めて帰郷したという知らせが、郷里から届きます。そして、第3学年になった21歳の時には、母が突然、兄と同じ脳卒中に罹って亡くなるという不幸に見舞われます。2年後には父も同じ病で他界しました。
 家族の相次ぐ不幸に見舞われたこの時期に、逍遥自身の身にも学生としての立場が一変する事件が起こりました。
 それは1881年6月の第3学年の期末試験でのことでした。フェノロサ教授の政治学・理財学の試験で合格点を取れず、さらに、ホートン教授の英文学の試験では、『ハムレット』について出題された設問の主旨を読み違えてしまうという失敗をし、結果落第してしまいます。この落第で、逍遥がそれまで選抜生として受けていた官費の給付が取り消されてしまいました。
 第3学年をもう一度送ることになった逍遥は、神田錦町の大学寄宿舎を出て猿楽町の下宿に移りました。そこで英語塾を開いて生計を立てる道を探したのです。英文学の本格的な研究にも着手します。翌年、父の死に際して帰郷した折には遺産の分配を辞退し、兄たちに対して、自分は「独立独行」して自活していくことを誓いました。そして、1883年に1年遅れで大学を卒業したのでした。


文学者・坪内逍遥の誕生



 逍遥がシェイクスピア作「ジュリアス・シーザー」を翻訳した戯曲『自由太刀余波鋭鋒(じゆうのたちなごりのきれあじ)』を刊行したのは、卒業翌年の1884(明治17)年でした。
 それまで英文学の翻訳を友人の兄の名前や別人の名義で刊行していた逍遥が、はじめて自分自身の名を使って出版したのがこの書でした。本の表紙には、「文学士坪内雄蔵」と記し、序文では「逍遥遊人」と名乗りました。「逍遥」の雅号は、愛読していた荘子の逍遥遊篇から選び取られました。
 文学者としての出発とともに、逍遥の教育者としての道も開かれていきます。
 逍遥より1年先に卒業していた親友の高田早苗は、在学中から鴎渡会という政治グループを結成し、大隈重信が展開する自由民権運動に参加していました。
 時は折しも、日本が近代国家として発展していくための基盤となる国会の開設と憲法制定の準備が進められているさなかにあり、人々の間では国のあり方を問う政治運動が熱く盛り上がっていました。この時代に「学問の独立」を掲げて、のちの早稲田大学に発展していく東京専門学校が大隈らによって1882(明治15)年に創立されると、高田は学校運営の中心メンバーになります。
 逍遥は高田の招きで、大学卒業後すぐに東京専門学校の教壇に立つことになりました。最初に受け持ったのは英文訳読や西洋史の講義で、逍遥はたちまち人気講師になりました。専門学校のほかにも複数の塾で講義を行い、預かっている寄宿生の監督にもあたるなど多忙な日々を送る逍遥でしたが、文学研究も継続していきました。
 その文学研究の成果として出版されたのが、1886年に刊行された上下巻からなる文芸評論『小説神髄』と、「春の屋おぼろ」の名義で1885年から翌年にかけて刊行された小説の『当世書生気質』でした。
 今まさに日本が近代国家として出発していく時に、渾身の思いで文学研究の成果を世に問おうとした逍遥の二つの著作は、新たな時代の文学の出現を待ち望んでいた人々にセンセーションをもって迎えられました。
 その後の逍遥が、生涯にわたって愛した日本の演劇についても、改良・進歩運動を唱えてこれを展開し、演劇人たちを鼓舞していったことは世に知られる通りです。
 
 ここからは、逍遥が交わした印象的な手紙をご紹介してまいります。


小泉八雲への手紙



 「耳なし芳一」や「雪女」を収めた『怪談』の作者として知られる小泉八雲と逍遥の交友は期間にしてわずか6カ月と短いものですが、両者は直接会う前から交流が始まっていました。
 アイルランド系のイギリス人軍医である父と、ギリシャ人の母を持った小泉八雲ことラフカディオ・ハーンは、アメリカにて新聞記者をしたのち、1890(明治23)年に来日します。島根県松江で中学校と師範学校の英語教師となり、旧藩士の娘小泉節子と結婚。熊本第五高等学校の教師などを経て、東京帝国大学文学部で英文学を講じます。1904年からは早稲田大学文学部の講師になりました。
 八雲が帝国大学を退職した際には、逍遥は読売新聞の1面に「小泉八雲の文科大学辞職を惜しむ」と題してオピニオンを掲げています。
 盟友・高田早苗から八雲を早稲田大学に招へいしたいという相談を受けた逍遥は、直ちに賛意を示します。そして、八雲が応じてくれたことを再び筆を読売新聞に執って、喜びを表しました。
 以下は大学の同僚になった八雲からの手紙と、逍遥の返事です。

「坪内雄蔵博士、――あなたは日本で最も忙しい人々の一人であるに相違ないと思ひますので、妄(みだ)りに貴重なる御時間の邪魔をする事を甚だ恐縮に存じます。しかし私は小さい助言――それを与へて下さる事は甚だ御面倒にもならないやうな助言――を一つ欲しいのです、――それで思ひ切つて御願する事に致しました。簡単に云へば、現代の短い脚本のうちどんなのを翻訳したら西洋の観客に有効でせうか、――それからこんな脚本は版本か或は写本で手に入れられるでせうか、それを承はりたいのです。(中略)しかし私は助言を得ないでは、選択が極端にむつかしいから恐ろしくて何事も試みられません。ただ一つだけ選ぶために四十或は五十の脚本を翻訳して見る事もできますまい。――夏のうちいつでも――日本語なり英語なりどちらででも――御注意を送つて或は与へて下されば、私は始める勇気が出て参りませう。しかしどうか私のために特別の御面倒をしないで下さい。(後略)」(1904年6月4日付け)

 八雲は、日本文化の紹介になるような日本の演劇を訳したいけれど、たくさんある中から選択する能力がないので逍遥の教示を得たい、と手紙に書いています。この手紙に対し、逍遥は英文と和文の両方を送りました。丁重な英文の和訳を以下に記します。

「わが日本人の生活感情の名解説者たる、尊敬する貴下のお役に立つことなら、欣然として何事によらずあい勤めますゆえ、ご遠慮なくお申し聞けください。」(6月7日付け)

 とあり、続けて、近松の名前を挙げてお勧めの脚本を伝えています。和文の手紙は縦書きの候文で、ところどころに英単語が斜め書きで差し込まれているという躍動感のあるものです。さらに特徴的なのは、最初の返事から21日後の手紙です。この日、英文で手紙をしたためた逍遥は、日本の演劇を分類し、関係性を俯瞰した図表を同封しています。能や浄瑠璃、歌舞伎などの種類と位置づけ、批評性も投影した図解を、八雲のために制作したのです。きっとその誠実な思いは八雲に届いたことでしょう。この手紙は、のちに八雲の妻・節子の帯地を用いて美しく表装されていることから、特に大切にされていたことが伺えます。


小川未明への手紙



 「赤い蝋燭と人魚」や「金の輪」などで知られる童話作家の小川未明は、早稲田大学在学中に逍遥から指導を受けました。また、小泉八雲の講義に感銘を受けた未明は、卒業論文では八雲を論じています。
 未明は本名を小川健作と言い、在学中に雑誌『新小説』に「漂浪児」を発表して注目されました。その際に使った雅号「未明」が生涯のペンネームになりました。この名は逍遥から授かったものです。その時の手紙をご紹介いたします。

「(前略)号いろ/\考へたれど、妙ならず「春日村」に因めば
  春 邨
尤も適したれど余り端手過ぎて沈鬱を悦ぶ君には適せざるにや。Twilightといふ語、ゲーテがBeautyはTwilightにありといへる例もあり、如何にも余韻あり。含蓄深く面白からんと思へど、微明、薄明、黄昏、いづれも妙でなし。仮に
  未 明
とせば如何、未明はDawnなり、同じく薄明りにはあれど次第に明かになりゆくべきTwilightなり、hopeの満ち溢れたる薄くらがり也。且つ春邨などいふ号の漢詩人めきたるに比して多少俳味をも含めるにや、よければこれを漂浪児にかき入れおくべし。」(1904(明治37)年7月4日付け)

 小川未明、という名前の美しさは、彼の名や作品を読んだことのある方ならどなたも感じたことがあるのではないでしょうか。逍遥による未明への理解、「沈鬱を悦ぶ君には適せざるにや」という一文におかしみが滲みます。この手紙によってその名の由来を知ればなお一層、未明の空の美しさが思い出され、同時に彼の作品の印象がほのかに浮かび上がる気がいたします。


未知の人からの手紙



 1930(昭和5)年の5月14日、当時70歳の逍遥は不思議な手紙を受け取ります。それは見ず知らずの人物からの手紙でした。以下はその全文です。

「謹啓未だ拝顔の光栄を得ず候処ます/\御清健学界の為に御尽瘁拝賀し奉り候陳者明治三十年の頃順天堂病院に一医学生たりし当時の野口清作は御著書「書生気質」なる本を読みて該書中に主人公たる野々口清作といふ医学生ありて恰も野口清作を呪ふが如き筋立なるを知りて深く驚嘆いたし候自分も之に同情して英世と改名いたさせ世界の医界の英雄たれと訓戒致し候処本人も大いに奮起し遂に野口英世博士と相成り申し候右は偶然の御作意にて候哉今以て不思議に存じ候按ふに御著中の野々口清作の言動は野口清作の立志奮励に頗る有力なる刺激と相成り候次第に候願はくは当時の御趣意御洩し下されたく別包記念写真呈上御願ひ申し候野口と自分とは義父子の間柄に候 敬具」

 手紙の内容は、医師・細菌学者として名声をあげ、アフリカで世を去った野口英世は、明治時代の医学生の頃に『当世書生気質』を読み、自身とそっくり似た名前のキャラクターが放蕩者であることに衝撃を受け、それが改名および奮起するきっかけになった、ということを告げるものでした。
 野口英世といえば、ご存知の通り、現代においては千円札紙幣の肖像に起用されている人物です。当時においても、野口の功績は当然逍遥の知るところでした。じつは、『当世書生気質』の登場人物・野々口清作の人物設定は決して放蕩者ではなく、野口の読み違えであり、その点は逍遥を不思議がらせました。しかしながら、偉業を成し遂げた人物に自身の著作が何らかのきっかけを与えていたということに驚いた逍遥は、想像もしていなかった奇遇への感謝の思いを著作に記しています。この手紙の送り主は、野口英世の郷里の恩師であり義父となった小林栄氏。小林氏は野口英世の才能を世に送り出し、後援した人物として知られています。


読書するように手紙を読んでみる



 「手紙」とは、親しい間柄のみのやり取りの手段にならず、時として意外な人からの思いもよらない知らせが舞い込むツールでもあります。現代においてはそれがS N Sに置き換わるかもしれません。しかしながら、物質として残る「手紙」が届くというインパクトは、何物にも変え難いのではないでしょうか。

「想像しても見たまへ、明治初期は 何もかも一足飛び だ。」(「二葉亭の事」)

 今、私たちが置かれている時代も、逍遥のいう「何もかも一足飛び」に近いものがあるかもしれません。あらゆる思考や知見が共有される読書は、想像するとは可能性を広げることと同義であると教えてくれます。作品同様、文学を築いてきた彼らの手紙からも示唆を得ることで、今日の私たちのあり方を考えるきっかけにしていただけたら幸いです。

(つづく)


©2023 POSTORY



近藤さんより
「干支が未(ひつじ)だったことから羊モチーフを好んでいた逍遥。羊といえばその字を持つ羊羹。新宿中村屋の羊羹の包装には、逍遥の弟子であり“心友”となった歌人・書家の会津八一による書が現在も使用されています。甘いものをお供に手紙の時間はいかがでしょうか」

☆ 『もう一度読みたい文豪の手紙』 次回の更新日は9月23日です。第11回もどうぞお楽しみに! ☆


<参照文献>
『逍遙選集』(1977-1978年 第一書房)
早稲田大学坪内博士記念演劇博物館・逍遙協会編『坪内逍遙書簡集』(2013年 早稲田大学出版部)
『新潮日本文学アルバム57 坪内逍遥』(1996年 新潮社)
『新潮日本文学アルバム別巻1 明治文学アルバム』(1986年 新潮社)
植田重雄『坪内逍遙 文人の世界』(1998年 恒文社)
『小泉八雲全集』(1926-1928年 第一書房)
高田早苗『半峰昔ばなし』(1927年 早稲田大学出版部)


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【こんどう・ちぐさ】
東京都生まれ。“手紙を書く時間を創造する”『POSTORY(ポストリー)』代表。経営者への手紙コンサルティング、企業用プロダクト制作、プロップスタイリング、撮影、執筆等を手がける。日本橋の老舗和紙舗『榛原』運営のはいばらオンラインミュージアムにて「折り折りの美-手紙の時間-」を連載中。
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