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もう一度読みたい文豪の手紙
POSTORY代表
近藤千草
第3回 武者小路実篤と白樺派 -理想と情熱、憧れを追求する手紙-
 小説家、劇作家、思想家、詩人でもあり、画家としても生きた武者小路実篤。友人らと共に創刊した文芸雑誌『白樺』の中心的人物としても知られています。『白樺』を制作した彼らは、文学にとどまらず広く芸術を愛好しました。“近代彫刻の父”と謳われる彫刻家・ロダンの作品を日本で初めて手にしたのは『白樺』の彼らです。創作や評論など、自分たちの書きたいものを書き、ロダンをはじめ、今日の私たちが知るセザンヌやゴッホ、ゴーギャンなどの芸術家を早期に取りあげ、同世代や若い人たちの西洋美術への憧れを誘引した雑誌『白樺』。個性を伸ばし、自己を生かすことに重きをおいた彼らによる手紙は一体どのようなものだったのでしょうか。


『白樺』を育て上げた実篤



 1885(明治18)年東京生まれの武者小路実篤は25歳の頃、学習院の学友である志賀直哉、木下利玄、正親町公和らと文芸雑誌『白樺』を創刊しました。実篤は発起人であり、その精神的な支柱として存在した人物です。
 『白樺』は1910(明治43)年4月に発刊され1923(大正12)年8月までの約13年間に160号を発刊した同人雑誌です。『白樺』のメンバーはこの雑誌を通じて、自分たちの理想とする文学だけではなく、古今東西の美術、中でも西洋美術を紹介し、美術に関する当時の最先端メディアとしての『白樺』を育て上げました。
 主要制作メンバーはいずれも学習院時代の級友であったことから、『白樺』は当初「上流階級出身者の道楽」と受け止められ、揶揄されたことも多かったようです。当時の学習院は現在と違い、華族の子弟を教育する学校でした。
 実篤は江戸時代初期から続く公卿出であり、母のことを「おたあさん」、父を「おでいさん」と呼ぶ慣わしで育ち、良家揃いの『白樺』のメンバーの中でも随一の名家でした。ですが、自伝小説『或る男』によると、華族とはいえ家は富んでおらず、洋服や本はいつも兄のお古ですませなければならなかったそうです。昼食も皆のように学食で食べることができず、家からお弁当を持っていくことに肩身が狭く思っていたこと、学校で「君子は悪衣悪食を恥ぢず」という論語をならい、何度もこの句を唱えて自身を勇気づけたことなどを著書に残しています。


志賀直哉との出会い



 『白樺』の創刊は、1910(明治43)年のはじめに志賀の家に同級生4人で集まり、雑誌の名前を決めるところから話し合いました。その頃実篤が志賀に宛てた葉書がこちらです。

「雑誌の名のこと、則ち今月中に他にいヽ名がなかったら白樺にしやうと思ふがどうかと云ふことを柳や郡に君から聞いてくれないか。それからいヽ名があったらなるべく早く云ってほしいと云ふことを、(後略)」(1月22日付け)

 名づける歴史的瞬間、および検討状況が作家本人の文字や文言で読めるというのは手紙の特性の一つ。どれほど昔のものでも不思議とライブ感が漂います。

 2歳年上の志賀との出会いは実篤が18、9歳の頃。以降70年以上にもわたり、実篤と友情を結びます。
 志賀直哉といえば、後にあの川端康成や菊池寛、芥川龍之介からの尊敬を集め、世間からも「小説の神様」と呼ばれ、文芸評論家・小林秀雄に「僕が会った文学者のうちでこの人は天才だと強く感じる人は志賀直哉氏」と言わしめた人物。そんな立派な志賀ですが、頭脳明晰ではあったものの怠けてしまい、学習院時代には2年間落第をしてしまいます。それが、実篤との出会いのきっかけになりました。
 志賀が落第をして実篤と同級生にならなければ、『白樺』という雑誌も文学の潮流も、ひいては白樺が影響を与えた日本の近代美術界も、現在のようには存在しなかったことでしょう。
 また、実篤自身も「学習院をびりから四番で卒業した」(『或る男』)と公言しており、数学が得意ではあったものの、授業に関係のない本をたくさん読むなどし、学校の勉強自体は少々苦手だったようです。学習院を卒業したのち志賀と同様に東京帝国大学に入学しますが、中退をしています。
 志賀は実篤に文学を紹介し、実篤も文学好きの友人を求めていたので積極的に吸収し、大いに感化されていきました。
 実篤に影響を与えた人物はその他にも、同級生の正親町公和や木下利玄らがいます。
 正親町は病で進学が遅れたので実篤と同級生でしたが、4歳年上でした。文学や美術に明るく、彼と行動をすることで実篤はよりその世界に憧れるようになったといいます。
 『白樺』ができる前に、同級の志賀、幼馴染で作文と和歌が得意な木下利玄、芸術を愛好する正親町公和とで回覧雑誌『暴矢』(のちに望野に改名)を作ると、それを真似て二級下だった里見弴、園池公致、児島喜久雄が『麦』を創刊し、さらに一級下の柳宗悦と郡虎彦が『桃園』を作ります。この三誌の同好の士が集まり、月刊文芸雑誌『白樺』は創刊されました。


漱石に捧げられた創刊号



 実篤は『白樺』記念すべき第1号の巻頭に、夏目漱石の『それから』についての評論を載せました。
 夏目漱石を日本で一番尊敬していたと著作に残している実篤は、当時多くの批評家に漱石が批判されていたことに腹を立てて、自分の思う『それから』の批評を書きました。まさしく、自分たちの書きたいことを書くための雑誌ならではです。
 そして、葉書を添えて漱石に『白樺』第1号を送りました。返事は期待せず、とにかく尊敬の気持ちをこめて届けたかったといいます。ところがまもなく一枚の葉書が届き、なんと漱石からの葉書だったことで実篤を歓喜させます。以下にその一部を抜粋します。

「拙作に対しあれ程の御注意を御払ひ被下候のみならず、多大の頁を御割愛被下候事感佩(かんぱい)の至に候。」(1910(明治43)年3月30日付け)

 実篤はすぐさま志賀に電話をかけ、葉書を読み上げ、二人は大いに喜び合いました。時代の寵児である憧れの人から返事があり、さらに感謝の気持ちを伝えてもらえることがどれだけ嬉しいことかは、想像に難くありません。


ロダンが受け取ったファンレター



 『白樺』を創刊した1910(明治43)年、当時すでに大家となっていたフランスの彫刻家オーギュスト・ロダンに夢中になっていた実篤らは、ロダンが70歳を迎えることを記念して、『白樺』でロダン特集を出す計画をします。
 しかし、誕生日を記念するつもりが、資料によってその日付に違いがあり、確かめるべく、ロダン本人に手紙を送ることにしました。手紙には、「特集を組むので正確な誕生日を教えてほしい」、「できれば肖像写真を掲載したいので写真とメッセージをよこしてほしい」という内容を載せました。
 この手紙は、フランス語のできる有島生馬に書いてもらい、9月1日付けで投函しました。有島生馬は欧州留学を経験した画家であり、帰国後『白樺』を通して日本にセザンヌを紹介したことでも知られています。のちに日本初の在野の美術家団体「二科会」の立ち上げに参画した人物です。
 ロダンへの手紙から1ヵ月以上経った10月12日、なんとロダンから有島生馬宛に返事が来ました。『白樺』メンバーの喜びようは相当なものだったようです。
 ロダンからの手紙は以下のような内容でした。

「日本の雑誌白樺が私の七十回の誕生に際して、私の製作の研究に、其号全部を献じて下さると云う好意ある考えを持たれた事について私はうれしく思い、又有り難くも思います。心から御礼を申し上げます。
 御申越に従って私の写真の中の一枚を御送り致します。其に数行をかきつけました。
 私の生月日は十一月十四日です」(『或る男』より)

 かくして『白樺』は1巻8号を「ロダン第七十回誕生紀年号」として11月14日に刊行することになりました。
 驚くことに、ここからしばらくの間、ロダンと白樺派の文通が続きます。ロダンは自分のデッサンと浮世絵とを交換したい旨を手紙で知らせていました。ロダンのデッサンが手に入るかもしれないことに実篤らは期待を募らせ、早速皆で相談し、お金を出し合い浮世絵を買うなどし、結果30枚近く送り、精一杯のことをします。そうしながらも、実篤らは本当にロダンがデッサンを送ってくれるのかどうか、半信半疑でした。ともかくロダンが喜んでくれればそれでいいと考えていたといいます。
 ところが、ロダンから再度手紙がきます。浮世絵に大いに喜び、お礼に《ロダン夫人》と《或る小さき影》、《ゴロツキの首》の三つのブロンズを送るという内容でした。それまで図版での鑑賞以外でロダンの作品を見たことはなかった彼らは、ロダンの彫刻が届くかもしれない可能性に湧き立ちます。
 そしていよいよ三つの彫刻が日本に到着した時、大勢の仲間が実篤の部屋に集まりました。彫刻を引き取りに行ったのは、のちに「民芸運動の父」と称される柳宗悦です。まだ日本に西洋美術館が存在しない時代に、実篤らはロダン本人から寄贈された三つもの彫刻をとうとう手にすることができたのです。その感激と興奮は現代の私たちの想像を遥に超えるものだと思います。

「君が帰るとまもなく柳から電話がヽヽり。ロダンの彫刻を三つ持って来ました。皆有頂天になりました。よかったら明日来玉へ。(武)
さっきからワキメもふらずに児島がみつめてゐる、皆んなもう頭がつかれて来た(柳)
Madame Rodinは見ていれば段々よくなる(志)
恐ろしいものをつかんで目の前へ出されたやうな気がする。(萱野)」(1911年12月22日付け)

 これは白樺派の画家・山脇信徳に宛てた実篤からの葉書です。実篤、柳宗悦、志賀、そしてこの萱野とはのちに劇作家として名を残した郡虎彦のこと。4人でペンを用いて寄せ書きをしている葉書です。
 彼らはたびたびこうして寄せ書きの葉書をやりとりしていて、わいわいと楽しく過ごす様子が感じられます。この時の葉書は実篤の字が一番大きく、全体の半分を占めています。次に柳がそれほど遠慮なく書き、次いで志賀が努めて冷静さを思わせるようなほっそりとした小さな字で葉書の無地部分を調整し、最後の郡は流れるような文字。それぞれの興奮が伝わってくるような筆跡です。
 なお、この三つの彫刻は現在、岡山県倉敷市の大原美術館に収蔵されています。また、実篤らが送った浮世絵や手紙は、ロダンの遺品としてフランス国立ロダン美術館に収められています。


ロダン特集号の後日談



 この「ロダン第七十回誕生紀年号」は、1912 (明治45)年6月18日、歌人・与謝野鉄幹・晶子夫妻により、ロダンに直接手渡されます。夫妻は見聞を広めるために相次いで渡欧し、パリに留まりました。その際、有島生馬からの紹介状と『白樺』を手に、夫妻はロダンの元に向かったのです。実篤ら渾身のロダン特集号は、本人の元に辿り着くことができました。
 余談ですが、この旅の後に生まれた与謝野鉄幹・晶子夫妻の四男アウギュストは、オーギュスト・ロダンからとり、名付けられました。


愛を送り、憧れを伝える手紙



 私たちも日頃より、憧れの人から受ける刺激やその影響をさまざまに醸成していますが、触発される私たちの様子もまた、他者に影響を与えます。憧れの人への賛辞や、誰をどう尊敬するのか。その選択自体が、自身の個性の輪郭を際立たせるきっかけになるのです。

 もしあなたに憧れの人がいたら、その方に手紙を出してみるのはいかがでしょうか。例えば出版社や事務所宛、公的な定められた場所付けで投函してみませんか。尊敬する理由や、どんな影響を受け、また感謝をしているか。この際ですから愛を文字におこし、目いっぱい心をこめて伝えてみましょう。受け取った方はきっと少なからず喜んでくださるはずです。
 この手紙を書く時のポイントは、大いに尊敬と想いを伝えつつ、しかし返事は期待しないこと。手紙という形あるものに想いを残してくれる人は、印象深いもの。返事の手紙そのものは返ってこなかったとしても、いつか違う形でメッセージを受け取れる日が来るかもしれません。
 また、実篤は創作の目的の一つを以下のように残しています。

「僕達が文学をやる目的の一つは人類に自分の心の動きを刻み込みたい、そしてそれを見る人に愛を送りたいし、それを見る人の愛を受けとりたい点だ。」(「「白樺」の運動」)

 自分の心の動きを伝え、愛を送り、さらに愛を受け取るための文学。そこで言うと、気持ちを文字にして伝える「手紙」とは、最もミニマムで端的、スペシャルな文学のように思います。例えば理想の生き方、仕事の仕方をする人にあなただけの文学を送る、それは、『白樺』の人々に通じる爽やかな情熱です。そしてそんな清い憧れの体現を受け取る方もまた、思いがけないお便りに励まされるのではないでしょうか。

(つづく)


©2022 POSTORY



近藤さんより
「実篤らによるロダンへの手紙をイメージして撮影しました。ロダンやゴッホに傾倒した白樺派の、清い憧れを載せた手紙です」


<参照文献>
武者小路実篤『或る男』(1923年 新潮社)
武者小路実篤『人生論・愛について』(1969年 新潮社)
『武者小路実篤全集』(1987-1991年 小学館)
『調布市 武者小路実篤記念館』(1994年 調布市武者小路実篤記念館)
今井信雄編『新潮日本文学アルバム 武者小路実篤』(1984年 新潮社)
松本武夫(福田清人編)『人と作品 武者小路実篤』(1969年 清水書院)
読売新聞大阪本社文化事業部他編『『白樺』誕生100年 白樺派の愛した美術』(2009年 読売新聞大阪本社)
『底本 漱石全集』(2016-2020年 岩波書店)


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【こんどう・ちぐさ】
東京都生まれ。“手紙を書く時間を創造する”『POSTORY(ポストリー)』代表。経営者への手紙コンサルティング、企業用プロダクト制作、プロップスタイリング、撮影、執筆等を手がける。日本橋の老舗和紙舗『榛原』運営のはいばらオンラインミュージアムにて「折り折りの美-手紙の時間-」を連載中。
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