「TOVE100」のロゴは、私がフィンランドを訪れた2014年の夏、どこへ行っても必ず目にした。そう、フィンランドは、この偉大な作家が生まれてから100年目の夏を国中で心からお祝いしていたのだ。今回フィンランドに降り立ってヘルシンキの町の中心部に着いたとき、最初に目に飛び込んできたのは、フィンランドの老舗デパート、ストックマンの丸いショーウィンドウを飾る「TOVE100」のディスプレイだった。すぐ隣の大型書店アカデミア書店のウィンドウにも、トーベの写真と夏のひまわりの花が飾られ、今年が特別な年だということを伝えていた。ヘルシンキ中央駅の向かいにある国立美術館アテネウムでは、大規模な「トーベ・ヤンソン展」が開かれ、彼女の仕事と人生を余すことなく紹介していた。
ポルヴォーでも、その愛らしい「TOVE100」のロゴがプリントされたポスターやチラシをたくさん見かけた。加えてこの日は、ろうそくの立てられた誕生日ケーキのシルエットとトーベの名前がプリントされた紙が町のいたるところに貼られ、あちこちでイベントが行われていることが告知されていた。それもそのはず、この日8月9日は、トーベの100回目の誕生日だったのだ。

老舗デパートのショーウィンドウのディスプレイ

トーベの写真が飾られた書店
私たちはニナたちに会う前、ポルヴォーのアートファクトリーで開かれていた「トーベ・ヤンソンと群島」という展覧会を観に行っていた。トーベがいかにこの地域と島を愛していたか、その結びつきを写真と資料で辿る展示で、クルーヴハルや周辺の島々の自然とトーベの文学との関わりを紹介していた。大きく引き伸ばされて飾られた島と海の風景写真や、古い時代の写真の他に、親しくしていた人たちに宛てられたトーベの直筆の手紙もあった。何より目を引いたのは、トーベとトゥーリッキが誇り愛した、あの気高きボート、ヴィクトリアが展示されていたことだった。マホガニー材で造られた船体にはニスが塗られ、余分なものが一切削ぎ落とされた二人から三人乗りのシンプルなボートの美しいフォルムに、私はうっとりと見入った。ヴィクトリアの後尾には「YAMAHA」のエンジンが備えられていて、そのそばにダンスをしているかのように優雅なトーベの文字で「VICTORIA KLOVHARUN」と刻まれたネームプレートが付けられていた。

「TOVE100」のロゴが入ったCD
ホールのようなアートファクトリーでは、訪れた人たちが思い思いに展示を楽しんでいた。ミュージアムショップには控えめながら愛らしいムーミンのぬいぐるみなども置かれ、風船も飾られて、お祝いの雰囲気がここにも満ちていた。子どもたちが嬉しそうにはしゃいでいるのを微笑ましく思いながら、私はそこで流れていた音楽が気になって、ふとショップの棚に目を落とした。そこには一枚のCDが販売されていて、「Vägen hem」と書かれていたジャケットには、「TOVE100」のロゴがあった。100周年のお祝いに作られた音楽なのだろうか。深くは考えず、でも、そこに流れていたピアノとチェロのメロディーが心地よくて、私はそのCDを買った。
黄色や淡い水色、ピンクの壁が愛らしい旧市街には、花が編まれたレースのカーテンやボトルシップ、愛らしいオブジェなどが飾られた雰囲気のある窓辺が多い。石畳の道は、奥に進むとなだらかな坂道になったり、狭い小径が横を通っていたりして、町の中を迷い込むような感覚も楽しめる。そんな古い町並みを楽しみながらそぞろ歩いているうちに、私たちはだんだんバースデーケーキのシルエットが描かれた、トーベの誕生日イベントを案内するチラシが気になりはじめた。そのチラシは旧市街の小径のあちこちに、一度に何枚も貼られていて、見る者をある方向に促しているようなのだった。
「どんなイベントをやってるんだろうね?」
「行ってみる?」
「そうしよう!」
チラシに案内されて道を進んでいくと、石造りの古い建物に辿り着いた。古びた柵には、「100」と書かれた色とりどりの小さな旗が飾られていて、庭の入口には花で飾られたアーチが作られていた。庭にはいたるところに、テントやら顔をはめるパネルやら、子どもたちが工作したと思われるオブジェがあり、何やら無秩序だ。真ん中には不思議の国のアリスのお茶会のように、クロスのかけられた大きなテーブルが二つ並べて置いてあって、テーブルの上には紙粘土で作られた、段になったバースデーケーキがいくつかあり、子どもたちが作ったと思われる飾りが付けられていた。子どもたちは周りのオブジェで楽しげに遊んでいて、中高生くらいの少女たちと大人たちが、席に着いてくつろいでいた。どうやらバースデーケーキを作るワークショップはちょうど終わった頃のようだ。
入口から中をのぞいていた私たちに気づいた少女の一人が、人懐っこく笑って手招きした。そばにいた先生のような男性もにこやかに声をかけてくれる。
「どうぞ! 入って自由に楽しんでください」
どうやらそこは、子どもたちのためのアートスクールのようだった。建物の中に入ると、廊下には段ボールや画材、子どもたちが作ったお面や絵画などがあふれている。今日はお昼からトーベの100回目の誕生日を祝うイベントがあり、朗読、音楽にダンス、影絵パフォーマンスなどさまざまな催し物が行われていたようだ。壁には子どもたちが描いたトーベの似顔絵がたくさん貼られていて、それはどれも頭に華やかな花冠を付けていた。
そうだよね、と私は頷いた。トーベ・ヤンソンといえば、真っ青な海を背にし、頭に鮮やかな花冠を被って微笑む晩年の写真を見たことがある人も多いのではないだろうか。他にも花冠を頭に飾って、クルーヴハルの溜まり水の池で泳ぐ写真もよく知られている。トーベには、やっぱり花冠。おばあちゃんになっても花冠を被って微笑むような人になりたい、と私もそれらの写真にひそかに憧れていた。フィンランドの子どもたちも、同じイメージなのだろうかと嬉しく思っていると、そこにいたスタッフの一人が、2階で花冠のワークショップが開催されていることを教えてくれた。トーベの誕生日に花冠のワークショップ、なんて粋なプログラムなのだろう! 私たちはさっそく向かうことにした。
ワークショップが行われている教室には、大きな木のテーブルが中央に置いてあり、花冠に使われる花々が花瓶やプラスティックのケースに小さく小分けになって準備されていた。大方のゲストはもうワークショップを終えた後らしく、そのとき参加していたのは一人の女性だけだった。スタッフが手順を説明してくれる。まず、緑のワイヤーが各自に渡され、それを自分の頭のサイズに合わせて切る。そこに、葉や花をひとつずつ巻き付けていくのだ。小さな子どもでも作りやすいように、小分けにした花の房や葉っぱにはあらかじめワイヤーが付けてあったので、作業はするすると捗った。幼い頃、シロツメクサの花で花冠を作ったことを思い出す。最後に輪っかにして、好きな色のリボンを結んで完成だ。
嬉しくなって、さっそく出来上がった花冠を頭に載せていると、スタッフの方が「写真を撮ってあげましょうか?」と聞いてくれた。お言葉に甘えて、二人で立って写真を撮ってもらった。おそろいの花冠をかぶってはいるものの、気の利いたポーズはできず、満面の笑顔を湛えながらただ不器用に立っているだけの姿がどこかシュールで、「売れないバンドかなんかのジャケ写みたい」と笑い合った。それから2年後、新谷さんと二人でフィンランドの旅の本を作るため、本当にkukkameri(クッカメリ)という名前のユニットを結成することになるなんて、そのときは夢にも思わなかった。
素敵なワークショップに参加できて満たされた私たちは、花冠をかぶったままアートスクールを後にし、旧市街のカフェでひと休みすることにした。少々はしゃぎすぎかと思ったが、ポルヴォーで夏休みを満喫中のフィンランドの人たちは、浮かれた東洋人二人の花冠姿などにはまったく興味はなく、人の視線を気にしないでくつろいでいられた。こういうとき、ヨーロッパ、特に北欧の人たちの個人主義というか、他人への関心のなさを実感する。後に私たちは旅の本の制作のため、フィンランド各地を取材することになるのだが、町中や公園で撮影やら何やらしていても、ほとんどの通行人は気にも留めないことが多い。それは、普段無意識のうちに、他人の目を気にする日本の空気に慣れている身には、毎回どこか新鮮で心地よく、自由に感じられる瞬間なのだった。

旧市街の横を流れるポルヴォー川
ポルヴォーの町のそばにはポルヴォー川あり、数キロメートル先はもう河口だ。川は旧市街の脇を流れていて、川辺にはポルヴォーのシンボルでもある、赤い塗料で塗られた古い木造の倉庫が並んでいる。この倉庫群は、18世紀に当時フィンランドを治めていたスウェーデン国王グスタフ3世がポルヴォーを訪れたとき、王に敬意を表して赤く塗られたと言われている。川の向こう側から倉庫を眺めると、同時に旧市街も一望できると宿の人に聞いていたので、私たちは橋を渡って向こう岸へ行ってみた。川辺は遊歩道のようになっていて、赤い倉庫を眺めながら歩いていると、たびたび小型ボートが上流から海へと向かって行くのに遭遇した。サングラスをかけ、日に焼けて、みんなとても解放された表情をしている。ときおりビールを片手に「イエーイ!」と景気づけ、スピードを上げ走っていくボートもいる。
ああ、いいなあ。まるで旅番組のエンディングのような、いかにものどかな夏の休日の夕方だ。フィンランドの学校は6月半ばから夏季休暇、そして8月の第2週には新学期が始まる。今日、8月9日は、そういう意味では夏休み最後の週末なのだった。
曇りがちだった空に晴れ間がのぞき、川辺に夕日が差し込んできた。くすんだ赤の倉庫群は光を受け、鮮やかに輝きはじめる。午後8時、北欧の空はまだまだ明るい。川の向こうのレストランで夕食を楽しむ人のさざめきが風に乗って渡ってくる。
明日はいよいよ、島に行く日だ。赤く照り映える美しい倉庫群を私たちはしばらく眺めていた。(つづく)
(写真提供:内山さつき)
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