1年365日。雨の日もあれば、晴れの日もある。うれしい日もあれば、少しイライラしてしまう日も……。毎日は当たり前のように過ぎていくけれど、身近にあるささいなコトやモノに目を向けると、平凡な1日がいつもと違った景色に見えるかもしれません。育児漫画家の高野優さんが、ふとした瞬間に感じる「小さな幸せ」をエッセーと楽しい漫画でつづる新連載「おうちで旅気分」がスタートしました。日々の暮らしを旅するように新鮮な気持ちで明るく過ごしませんか? 旅と香りは、いつだってワンセット。
二十歳になったばかりの頃、往復の切符だけを手配して、海外へひとり旅にでた。決まっているのは、到着と出発の空港がイギリスということだけ。
成田空港へ到着すると、イギリスのヒースロー空港へ向かう便にオーバーブッキングがあったようで、振り替え可能な乗客を探すアナウンスがひっきりなしに流れていた。便の変更に協力すると、フレックストラベラー制度で謝礼金やマイルがもらえる。
自由な時間だけは限りなくあるバックパッカーだけど、お財布の中身は若干不自由。それならばと勇んでカウンターへ行くと、便だけではなく行き先もイギリスからフランスへ変わるらしい。一瞬ためらったけれど、アクシデントも旅の醍醐味だと思って快諾をした。
シャルル・ド・ゴール空港へ到着後、ガイドブックに載っていたアパルトマン(アパート)へ電話をかけてはみたものの、英語が通じなくて焦りが募る。フランス語はちんぷんかんぷんなので、自分の拙い発音と語彙を嘆きつつも、短い英単語を並べてなんとか予約へこぎつけた。
映画のセットのようなパリの街並みに圧倒されつつアパルトマンへたどり着くと、オーナーらしき女性が部屋を案内してくれた。簡単な英語とジェスチャーで部屋と家電の説明をしたあと、胸ポケットから厚紙を取りだして片手で器用に折り畳み、灰皿の上で火を点けた。ぼうっと音をたてながら、ほんの数秒で生成り色の紙は真っ黒な灰になり、残ったのは癖のある香りだけ。
紙のお香があるなんて! いつまでも続く残り香は、長旅で緊張していた気持ちを静かにほぐしてくれた。1週間ほどお世話になりチェックアウトを終えると、オーナーがお釣りと一緒に紙のお香をわたしの手の平に乗せて、きっと誰もが知るフランス語を口にだして微笑んだ。
時が流れた今でも紙のお香に火を点けるたびに、アパルトマンの壁紙の柄と、ドアにはめ込まれたステンドガラスが目に浮かぶ。そして、燃えながら香る紙を眺めていたわたしをちらりと見て、眉と口角を上げたオーナーの姿を。紙のお香がペーパーインセンスという名前だと知ったのは、帰国してずいぶん経ってからのこと。
どうしてだかこのお香を使うと、背筋がしゃんと伸びて大人の女性になったような気分になる。年齢だけなら、もう十分立派な大人なのに。あの日、オーナーが呟いたフランス語は「bon voyage」。
気軽にどこへも行けない今だからこそ、家の中で過ごしながら、今日も香りで旅をする。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
高野優さんのオフィシャルブログ「釣りとJazzと着物があれば。」