笠原さんが染織の道を志したのは20代のころ。それまで縁もゆかりもなかった世界と出会うきっかけを作ったのは、一台の機織り機でした。地元・加美町に残された機織り文化を知った笠原さんは、やがて、さらなる学びの地で多彩な文化への造詣を深めていきます。機織り機に糸をかけたい約40年前、大学を卒業し、家業の手伝いで一時地元に戻っていたときのこと。何げなく雑誌を眺めていると、古い織機(しょっき、おりき)をインテリアとして使った部屋が紹介されていました。生来アンティーク好きの私は、親戚の家に使われなくなった織機があることを思い出し「自分も部屋に飾ってみよう」と思い立ちます。さっそく埃をかぶっていた織機を譲っていただき、庭で一生懸命に磨いて、組み立てるところまではできました。しかし、糸をかけないことには、どうも様にならない。そこで織機の持ち主で、本人もその機で織っていた叔母から、「山の集落に機織りがうまい人がいる」と教えてもらったのです。
その方は私の最初の師となる高嶋なつゑさんという女性で、ご自分で蚕を飼い、繭から糸を引き、その糸で織物を作っていました。織っていたのは白一色の反物です。これはその昔、町のいたるところで見られた懐かしい手仕事の風景でした。
かつての手仕事の風景日本の蚕糸業は明治期に大きく発展し、昭和初期に最盛期を迎えたとされます。養蚕は農閑期の貴重な現金収入源でもあり、稲作が盛んな加美にもたくさんの養蚕農家がありました。私が生まれ育った加美町小野田地区(旧小野田町)にも製糸工場があり、織物業も営まれていたといいます。
製品として出荷する絹糸や織物を生産するかたわら、農家では余った繭で自分たちが着るための織物も作っていました。染めの技術や設備を持つ家はほとんどなかったので、作るのは繭から引いた生糸や紬糸で織る白一色の反物です。それを町の染屋さんを通じて他所で染めてもらい、着物に仕立て、娘の嫁入り道具などにしていたそうです。こうすることで、高価で買うのは難しい絹の着物を手にできたのですね。しかし戦後になると、化学繊維や海外製の安価な絹糸の普及などで、蚕糸業は急激に衰退していきました。

最初の師・高嶋さんと、若き日の笠原さん

高嶋さんが紡いだ糸と、その糸で織り上げた反物
私が織機と出会った1980年代は、養蚕も機織りもすでに過去の産物になりつつあった時代。世の中ではほとんど忘れ去られた手仕事を、高嶋さんはどうして続けていたのでしょう。ひと言でいえば、ただ純粋に好きだったのです。小さいころは母親が機織りをする姿を見るのが大好きだったそうで、「母親に“触るな、触るな”と言われながら、興味津々で眺めていた」と、よく話してくれました。婚家の家業や子育てで忙しかった時期には機織りから離れていたようですが、40~50代になってようやく自分の時間が持てるようになり、再び機織りに没頭するようになったそうです。
染織家としての私の原点となったのは、こんなふうに人々の暮らしに根差した、サブカルチャーとしての機織り文化でした。
機織りはとにかく面白い高嶋さんのご自宅にある作業場で、初めて機織りを体験させてもらった私は、その面白さにすぐに魅了されました。織機の仕組みも、「織る」という作業そのものも、本当に面白かったのです。機織りは、地味ですが実に建設的な作業です。何百本、何千本と並べた経糸(たていと)に、緯糸(よこいと)を一本一本重ねていく。その最中には、糸が切れたり、からんだりと、さまざまなトラブルが起こります。それらを一つひとつ自分の手で解決しながら、一枚の布を生み出していく過程にすっかり夢中になりました。
それからは家業の合間を縫って、週末ごとに作業場へ通いました。高嶋さんにも「お前、手筋いいな」なんて言われて、その気になってしまったんですね(笑)。一年ほどたったころにはとうとう作業場の近くに家を借りました。その地域は町内の中でも冬は雪が深く、大変な場所にも関わらずです。そうしてまるまるひと冬、毎日作業場へ通っては機を織る日々を過ごしました。
作業場にこもっていたある日。窓の半分以上が雪に埋もれ、わずかな隙間から薄明かりが差し込む中、真っ白な生地を織っていると、ふと「これは自分の仕事になるかもしれないな」という気持ちになりました。なぜかは分かりませんが「これを仕事にしたい」という考えが、はっきりと湧き上がってきたのです。同時に、「この生地に自分の思い描くデザインを施してみたい」という願望も芽生えていました。白生地はいわばキャンバス。そこに自分の好きな色彩や文様を描いてみたいと思ったのです。
さらなる学びを求めて
左:職業訓練校の指導員・加鳥重雄さんと。右:松本時代の恩師・本郷孝文さん。「さまざまな出会いのどれか一つでも欠けていたら、今の自分はなかった」と笠原さんは言う
その後、米沢の職業訓練校で染織の基礎を学んだのち、長野県松本市の染織家・本郷大二先生、孝文先生のもとで5年間修業を積みました。私は訓練校時代に「藍染め、絣、絹織物」を自分のテーマにしようと決めたのですが、この3つを全て学べる場所はめったにありません。本郷先生に弟子入りできたことは奇跡に近い幸運でした。
さらに、民芸が盛んな松本では、常に美しいものに触れることができました。本郷先生も、「民藝」の創始者・柳宗悦氏の甥で染織界の大家として知られた柳悦博氏の薫陶を受けており、本郷先生を通じて文化人や研究者の方々と交流する機会にも恵まれました。ある時は、文化人類学者の方に連れられ、2カ月間アフリカに滞在したこともありました。松本での日々は、私の精神面を深く掘り下げてくれた、かけがえのない時間です。
あの日から少しも変わらない、手仕事の面白さ修業を終え、故郷で独立したのは30歳の時。以来、「自分にしか作れないものを作る」ということを仕事の基本としてきました。すぐにはできない、簡単には真似できない、そんなオリジナリティーのある仕事をすることが、若いころからの一貫した目標でした。時代が移り変わっても、機械化が進んでも、今のようにAIが台頭してきても、その人にしかできない仕事をする。そのために知識や技術を磨き続ける。それこそが、私にとっての手仕事の面白さなのかもしれません。
新しいものと出会うたびに、「こんなふうに使えないか、こんなふうに表現できないか」と、いつも考えています。その挑戦が面白いから続けていますし、「もっともっと面白くならないか」と思いながら手を動かしています。この道に進もうと決めた20代のあの日から、その面白さは少しも変わっていません。(つづく)
――染織家を志した時には、周囲から反対の声もあったという笠原さん。しかし一切ブレることなく意思を貫き、今にいたるまで「辞めたい」と思ったことはただの一度もないのだそう。「だって後に引けないと思ったから」と笑いますが、なによりの原動力は「面白い」という純粋な好奇心にあるのではないでしょうか。そんな笠原さんが、作品制作とともに力を入れてきたのが、工芸や手仕事の魅力を伝える取り組みです。次回は、30年以上にわたり運営する工芸ギャラリーと染織教室について聞きます。(構成:寺崎靖子)